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阿弥陀如来坐像の構造や作風についてご紹介致します。

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こちらのページでは『阿弥陀如来坐像』の構造や作風についてご紹介しています。

 阿弥陀如来坐像つくり~構造と作風~

【構造】
本像は複数の材木を組み合わせる、いわゆる寄木造の技法で作られている。
前後二材のうち前面材には両目の孔が穿たれ、裏からレンズ状に加工した水晶をあてる『玉眼』(ぎょくがん)の技法が用いられている(右写真①参照)。この『玉眼』はなかなか丁寧なもので、水晶の裏に白い綿(或いは和紙か)をあてて白眼の部分をつくり、さらに水晶の裏面に朱と墨でそれぞれ虹彩と瞳が書き込まれている。 体幹部は背面材、腹前材各1の前後二材を基本とし、両膝前は二材を寄せ、さらに裾先に補材をあてる。
胎内各所には後補の小埋木があり、各接合面や干割れ箇所では「鎹」(かすがい)を用いて補強がなされている。
この仏像は体幹部、膝前部ともに材の状態は良好で、朽損箇所はとくに認められない。
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【銘文と制作年代】
本像の胎内には墨書きで制作年代や製作者が銘記されている。その位置は大きく分けて右肩付近(写真③)、像の底面(写真④)である。
このうち、背面底部の銘文はことに重要で、そこには「願主」(神仏に願を立て当人ねがいぬし)として「僧・浄誉」とある。また、「陸奥之佛師」として「半田三郎兵衛」の名が記されている。 そして『享保二歳丁酉四月□日』の年紀も記されている。
享保二年は西暦1717年にあたり、干支「丁酉」も正確にこの年のものである。
従って、本像は今から約300年前、徳川八代将軍吉宗の頃に佛師「半田三郎兵衛」によって制作されたものということになる。
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